こんにちは。「アートの地図帳」のさとまるです。
世界的に有名な浮世絵師、葛飾北斎。彼の作品は知っていても、その人物像や面白いエピソードについてはあまり詳しくないという方も多いのではないでしょうか。
実は北斎、絵の才能だけでなく、その性格や生き方もかなり強烈なキャラクターの持ち主だったんです。お酒は飲めないけれど甘いものが大好きだったり、掃除が嫌いで引越しを繰り返したりと、人間味あふれる話がたくさん残っています。
この記事では、そんな北斎の知られざる一面や、思わず誰かに話したくなるような変人伝説について、年表や家族の話も交えながら楽しく紹介していきます。
- 93回もの引越しを繰り返した驚きの理由とその背景
- あだ名や改名に隠された北斎のユニークなこだわり
- 死の淵から復活した特製ドリンクと甘党エピソード
- 娘のお栄や子孫など北斎を支えた家族の物語
葛飾北斎のエピソードから知る性格と天才性
ここでは、葛飾北斎という人物がいかに規格外だったかを示す具体的なエピソードを紹介します。彼の性格や行動は、当時の常識からかけ離れたものでしたが、それこそが天才を生み出した要因だったのかもしれません。
葛飾北斎はどんな人だったのか性格を分析

葛飾北斎は、一言で言えば「絵を描くこと以外には全く興味がない人」でした。その徹底ぶりは凄まじく、身なりには全く構わず、いつもボロボロの服を着ていたと言われています。お金にも無頓着で、絵の代金を受け取っても中身を確認せず、包みのまま放置。借金取りや支払いが来ると、その包みをそのまま渡していたという豪快な(というか適当な)エピソードが残っています。
また、彼は極度の「掃除嫌い」でもありました。部屋が散らかり放題になり、ゴミや汚れで住めなくなると「掃除をする代わりに引っ越す」という解決策をとっていたのです。その回数はなんと生涯で93回!一日に3回引っ越したこともあるという伝説すらあります。礼儀作法も苦手で、相手が身分の高い人であっても挨拶すらしなかったとか。この「絵以外はどうでもいい」という極端な性格こそが、90歳で亡くなるまで筆を握り続けた原動力だったのでしょう。
- 部屋の掃除が大嫌いでゴミ屋敷化させていた
- お金の管理がズボラすぎて貧乏生活が続いた
- 相手が誰であろうと愛想笑い一つしなかった
葛飾北斎の絵画は何がすごいのか解説
北斎の絵画がすごい理由は、圧倒的な「画力」と「構成力」、そして「探究心」にあります。彼は当時の浮世絵界では珍しく、西洋画の遠近法や陰影法を積極的に取り入れました。代表作『富嶽三十六景』の「神奈川沖浪裏」を見ればわかるように、波の表現一つとっても、ハイスピードカメラで撮影したかのようなリアルさと、デザインとしての美しさが同居しています。

さらにすごいのは、彼の観察眼です。北斎は「森羅万象を描く」ことを目指し、人間だけでなく、動植物、妖怪、波の飛沫、風の動きまで、あらゆるものをスケッチしました。その集大成とも言える『北斎漫画』は、現代でいうイラスト素材集のようなもので、弟子たちの手本として描かれたものですが、その動きのある描写は今見ても古さを感じさせません。
「70歳までに描いたものは取るに足らない」と言い放ち、常に進化を求めた姿勢こそが、世界中のアーティストを魅了し続ける理由なんですね。
葛飾北斎の名前の由来と改名の歴史

北斎は生涯で30回以上も名前(画号)を変えました。「春朗」から始まり、「宗理」「北斎」「為一」「画狂老人卍」など、コロコロと名前を変えています。一般的に画家が名前を変えるのは、師匠から独立したり、画風が変わったりするタイミングですが、北斎の場合は少し事情が違いました。
彼にとって名前はブランドではなく、単なるラベルに過ぎなかったのかもしれません。面白いのは、使い終わった名前を弟子に譲ることで収入を得ていたという説です。「北斎」という名前すら弟子に譲っています。そして自分は新しい名前でまた一から出直す。このサイクルを繰り返すことで、常に新人画家のような新鮮な気持ちで絵に向き合っていたのかもしれません。
勝川春朗 → 俵屋宗理 → 北斎辰政 → 葛飾北斎 → 戴斗 → 為一 → 画狂老人卍
※これ以外にも細かい改名を含めると30回以上になります。
葛飾北斎のあだ名とユニークな呼び名
北斎には、自ら名乗った画号以外にも、周囲から呼ばれていたあだ名や、ちょっと変わった通称がありました。幼名は「時太郎」、その後「鉄蔵」と呼ばれていましたが、これは本名に近いものです。
もっとユニークなのは、名古屋で巨大な達磨(だるま)の絵を即興で描くパフォーマンスをした際についたあだ名です。120畳もの大きさの紙に描かれた達磨を見た人々は、度肝を抜かれ、北斎のことを「だるせん(達磨先生の略)」と呼んで親しんだそうです。江戸時代の名古屋で「だるせん」なんて、なんだか現代のゆるキャラみたいな呼び方で面白いですよね。
また、晩年に名乗った「画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)」という名前そのものも、ある意味であだ名のようなインパクトがあります。「絵に狂ったじじい」と自称するユーモアとロックな精神には脱帽です。
葛飾北斎のエピソードと好んだドリンク

「変人=お酒好き」というイメージがあるかもしれませんが、意外にも北斎はお酒が一滴も飲めない「下戸」でした。その代わり大の甘党で、特に大福餅には目がなかったそうです。誰かが手土産に大福を持ってくると、無愛想な北斎も喜んだと言われています。
そして、ドリンクに関する有名なエピソードといえば「柚子湯」です。中風(脳卒中の一種)で倒れた際、北斎は医者に見放されながらも、自分で考案した特製ドリンクで回復したと伝えられています。そのレシピは「柚子1個を細かく刻み、日本酒1合と煮詰めて、白湯で割って飲む」というもの。お酒は飲めない北斎ですが、薬として煮切ったお酒を使ったんですね。
- 材料:柚子1個、日本酒1合
- 作り方:土鍋で煮詰めて飴状にし、お湯で溶いて飲む
- 効果:これで中風から復活し、その後も名作を描き続けたと言われています
葛飾北斎のエピソードが語る生涯と家族
北斎の創作活動を支えたのは、彼の才能だけではありません。ここでは、90年の生涯を時系列で振り返りつつ、彼を支えた妻や娘、そして後世に続く子孫などの家族関係にスポットを当てていきます。
葛飾北斎の年表で見る波乱万丈な人生
北斎の人生は、まさに絵を描くために捧げられた90年でした。簡単にその歩みを年表で見てみましょう。
| 年齢 | 出来事 | ポイント |
|---|---|---|
| 6歳頃 | 絵を描くことに興味を持ち始める | 鏡磨き職人の家に養子に入る |
| 19歳 | 勝川春章に入門 | 浮世絵師としてのキャリアスタート |
| 30代 | 「宗理」を名乗る | 独特な美人画や狂歌絵本を手がける |
| 50代 | 『北斎漫画』初編を刊行 | ベストセラーとなり全国に名が知れ渡る |
| 70代 | 『富嶽三十六景』を発表 | あの大波や赤富士はこの時期の作品! |
| 80代 | 長野県小布施へ旅をする | 晩年になっても創作意欲は衰えず |
| 90歳 | 江戸の浅草で死去 | 死の直前まで絵筆を離さなかった |
こうして見ると、私たちがよく知る「富嶽三十六景」が70代の作品であることに驚かされます。現代で言えば定年後の年齢から、歴史に残る代表作を生み出したのです。
葛飾北斎の妻と家族にまつわる話
北斎は生涯で2度結婚しています。最初の妻とは死別し、その後再婚しましたが、2人目の妻とも死別しています。彼には2人の息子と3人の娘がいました。
中でも有名なのが、三女の「お栄(えい)」こと、画号「葛飾応為(かつしかおうい)」です。彼女もまた天才的な画力の持ち主で、出戻り娘として晩年の北斎と同居し、助手として、あるいは一人の画家として北斎を支えました。彼女も北斎に似て片付けができない性格だったらしく、二人の暮らす家はゴミ屋敷状態だったとか。互いに「おーい」と呼び合っていたから「応為」という画号になったという説もあるほど、似た者同士の親子だったようです。

葛飾北斎の子孫と現在の家系について
「北斎の子孫は現在もいるの?」というのは気になるところですよね。北斎の長男・富之助や、次女・お辰の子孫などは記録が曖昧な部分もありますが、長女・お美代の血筋が「加瀬家」として続いていると言われています。
北斎の娘であるお栄(応為)には子供がいなかったとされていますが、他の兄弟の家系を通じて、北斎の血は受け継がれています。現代においても、北斎の子孫にあたる方がメディアの取材に応じたことがあり、偉大な祖先の残した作品や資料を大切に守り伝えているようです。直接的な画家としての後継者はいませんが、その芸術的な遺伝子は何らかの形で受け継がれているのかもしれません。
世界が称賛する葛飾北斎の絵画の反応
北斎の評価は、日本国内よりもむしろ海外で爆発的に高まりました。19世紀後半、ヨーロッパで「ジャポニスム(日本趣味)」ブームが起きた際、北斎の浮世絵はモネやドガ、ゴッホといった印象派の巨匠たちに多大な衝撃を与えました。
特に『北斎漫画』は、包み紙として海を渡ったという逸話があるほど(真偽は定かではありませんが)、偶然の形で西洋の人々の目に触れ、そのデッサン力と構図の大胆さが称賛されました。1999年には、アメリカの雑誌『ライフ』が選ぶ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の100人」に、日本人として唯一選出されています。これは本当にすごいことですよね。
葛飾北斎の死因と最期に残した言葉

嘉永2年(1849年)、北斎は90歳でその生涯を閉じました。死因は老衰、あるいは当時流行していた病気とも言われていますが、はっきりとは分かっていません。しかし、彼が最期に残した言葉はあまりにも有名です。
「天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得(う)べし」
現代語訳すると、「天があと5年私を生かしてくれたら、私は本物の画家になれたのに」という意味です。90歳になり、数々の傑作を残してもなお「まだ本物になれていない」と嘆いたのです。この凄まじい向上心には震えますよね。
また、辞世の句として以下の言葉も残しています。
「人魂で 行く気散じや 夏の原」
「死んだら人魂になって、夏の原っぱを気晴らしに散歩してくるよ」というような、軽やかで自由な心境が感じられる一句です。
葛飾北斎のエピソードは面白い!生涯まとめ

ここまで、葛飾北斎のエピソードや性格について紹介してきましたが、いかがでしたか?
- 掃除嫌いで93回も引越しをした
- 「だるせん」や「画狂老人卍」など名前もユニーク
- お酒は飲めず大福と柚子湯が好きだった
- 90歳で亡くなる直前まで「もっと上手くなりたい」と願っていた
北斎は単なる「絵が上手い昔の人」ではなく、人間臭くて、ユーモアがあり、そして誰よりも絵を描くことを愛した情熱家でした。次に北斎の絵を見る機会があれば、ぜひ「この絵を描いたのは、あのゴミ屋敷に住んでいたお爺さんなんだな」と思い出してみてください。きっと今までとは違った親しみや感動が湧いてくるはずです。
