こんにちは。「アートの地図帳」のさとまるです。
ゴッホの代表作として知られる「タンギー爺さんの肖像」ですが、実は同じ構図で描かれた作品が2枚存在することをご存知でしょうか。美術館で実物を見たことがある方も、画集で眺めたことがある方も、ふと疑問に思うことがあるかもしれません。なぜ背景に浮世絵が描かれているのか、それぞれの作品にどのような違いがあるのか、そして現在はどこの美術館に所蔵されているのか。
この記事では、ゴッホがパリ時代に描いたこの不思議な肖像画について、2枚のバージョンの特徴や魅力、モデルとなったタンギー爺さんの人柄、そして背景に隠された浮世絵の名前まで、詳しく解説していきます。
- 実は3枚存在する肖像画の違いとそれぞれの歴史的背景
- ロダン美術館版とニアルコス版の決定的な違いと見分け方
- 背景に描かれた浮世絵の正体とゴッホが込めた意図
- タンギー爺さんとゴッホの間にあった深い友情のエピソード
ゴッホのタンギー爺さんは2枚ある?違いと解説
「タンギー爺さん」として親しまれているこの肖像画ですが、ゴッホが描いたのは実は2枚だけではありません。ここでは、一般的に知られている2枚を含めた全3作の存在と、それぞれの作品が持つ意味合いについて深掘りしていきます。
タンギー爺さんの作品名は?3つの肖像画
私たちが普段「タンギー爺さん」と呼んでいる作品の正式な作品名は『タンギー爺さんの肖像』です。しかし、ゴッホはこの心優しい画材商をモデルに、油彩画として合計3点の肖像画を残しています。
1枚目は1886年の冬から翌年初頭にかけて描かれたもので、茶色のエプロンをつけた職人風の姿です。この時点では背景に浮世絵はなく、暗い色調で描かれているため、今の私たちがイメージするカラフルな作品とは全く印象が異なります。

そして、皆さんが「2枚ある?」と気になっているのが、その後に描かれた2つのバージョンです。これらは背景が鮮やかな浮世絵で埋め尽くされており、ゴッホのジャポニスム(日本趣味)への傾倒が色濃く反映されています。


ゴッホとタンギー爺さんの解説と深層
この作品を深く理解するためには、ゴッホが置かれていた状況を知る必要があります。1886年にパリへ出たゴッホは、印象派や新印象派の明るい色彩に衝撃を受けました。暗いオランダ時代の画風から脱却しようともがいていた彼を、精神的にも物質的にも支えたのがタンギー爺さんです。
本名はジュリアン・フランソワ・タンギー。パリのクローゼル通りで絵具店を営んでいました。貧しい画家たちに代金の代わりに絵を受け取って画材を提供するなど、彼らの「父(ペール)」のような存在でした。
ゴッホにとってタンギー爺さんは、単なるモデル以上の存在でした。彼はタンギーを、近代社会の物質主義に染まらない「俗世の聖人」や「仏陀」のように捉えていたと言われています。背景の浮世絵は、そんな彼を理想郷である「日本」の住人として描くための演出だったのかもしれません。
浮世絵背景のタンギー爺さん2枚の比較

では、浮世絵が背景に描かれた2枚の作品(F363とF364)は具体的にどう違うのでしょうか。研究者の間でも制作順序については議論がありますが、一説によると、完成度の高いロダン美術館版(F363)が先に描かれ、その後にニアルコス版(F364)が描かれたと考えられています。
この視点で見ると、2枚の違いがより興味深く浮かび上がってきます。
| 比較項目 | ロダン美術館版 (F363) | ニアルコス版 (F364) |
|---|---|---|
| 制作時期 | 1887年 | 1887年〜1888年 |
| 所蔵 | ロダン美術館(パリ) | スタブロス・ニアルコス・コレクション(個人蔵) |
| 筆致 | 緻密で重厚 | 荒々しく即興的 |
| タンギーの表情 | 穏やかで瞑想的 | やや緊張感がある |
| 背景の描写 | 浮世絵の図柄まで克明に模写 | 簡略化されている部分がある |
こうして比較すると、ロダン美術館版で「浮世絵と人物の融合」を完璧に成し遂げた後、その構図を用いつつ、より自由な筆致で実験的に描かれたのがニアルコス版であるというストーリーが見えてきます。
2つの肖像画に見る特徴と魅力の違い
ロダン美術館版(F363)の最大の特徴は、圧倒的な「調和」と「構築性」です。タンギー爺さんのジャケットの青と背景の浮世絵の青が響き合い、画面全体がひとつの世界として統合されています。最初に描かれたとされるこのバージョンは、ゴッホが自身の収集した浮世絵を丁寧に配置し、モデルへの敬意を込めて丹念に仕上げた記念碑的な作品と言えます。
一方、後に描かれたとされるニアルコス版(F364)の魅力は、その荒々しいエネルギーと「省略の美学」です。ロダン版で確立した構図をベースにしているため、細部の描写にとらわれることなく、大胆な筆使いで色彩の実験を行っているように見えます。キャンバスの地が見えるほどの素早いタッチは、ゴッホが形よりも「色の響き合い」を重視し始めた進化の過程を示しているのかもしれません。
浮世絵を取り入れた技法と構図の進化
この2枚の作品でゴッホが挑戦したのは、西洋絵画の伝統である「遠近法」の打破でした。背景に平面的で装飾的な浮世絵を配置することで、奥行きをなくし、画面をフラットな色面として構成しようとしたのです。
特にロダン美術館版では、この技法が完成の域に達しています。タンギー爺さんが浮世絵の壁の前に座っているというよりは、彼自身が浮世絵の一部、あるいは「日本」というユートピアの中に溶け込んでいるかのような構図になっています。これは、当時のゴッホがいかに日本美術から強い影響を受け、新しい表現を模索していたかを示す証拠と言えるでしょう。
背景に描かれた浮世絵の名前リスト

ロダン美術館版の背景を埋め尽くす浮世絵は、ゴッホの想像で描かれたものではなく、彼が実際に所有していたコレクションを模写したものです。美術史家の研究によって、その多くが特定されています。
- 右上の背景: 歌川広重『五十三次名所図会 四十五 石薬師 義経さくら範頼の祠』
- 頭部真後ろ: 歌川広重『冨士三十六景 さがみ川』(ゴッホは白鷺を雁のように描き変えています)
- 左中段: 歌川国貞(三代豊国)『三世岩井粂三郎の三浦屋高尾』(花魁姿の役者絵です)
- 右下: 渓斎英泉『雲龍打掛の花魁』(雑誌『パリ・イリュストレ』の表紙をトレースしたため左右反転しています)
- 左下: 作者不詳『東京名所 いり屋』(ちりめん絵であることが判明しています)
ゴッホはこれらの浮世絵をそのまま写したわけではなく、より鮮やかな色彩で「再創造」しています。特に頭の後ろに富士山を配置することで、まるでタンギー爺さんに「後光」が差しているように見せている点は、ゴッホの演出の巧みさを感じさせます。



ゴッホのタンギー爺さん2枚の所蔵場所と歴史
作品そのものの魅力に加え、これらの絵画がどのような運命を辿ったのかを知ることも、鑑賞をより深いものにしてくれます。ここでは、現在どこで実物を見ることができるのか、そしてモデルと画家の知られざる絆について見ていきましょう。
各バージョンの美術館はどこにある?
「この絵を実物で見たい!」と思ったとき、どこへ行けばよいのでしょうか。
まず、完成度が高いとされるロダン美術館版(F363)は、その名の通りフランス・パリの「ロダン美術館」に所蔵されています。彫刻家オーギュスト・ロダンの旧邸宅を利用したこの美術館の2階には、ゴッホやモネ、ルノワールの作品が展示されている部屋があり、そこで常設展示されています。パリ旅行の際にはぜひ立ち寄りたいスポットです。
一方、実験的なニアルコス版(F364)は、ギリシャの海運王スタブロス・ニアルコスの個人コレクション(ニアルコス・コレクション)に入っています。残念ながらこちらは個人蔵のため、一般公開される機会は極めて稀です。展覧会などで貸し出されない限り、実物にお目にかかることは難しい「幻の1枚」と言えるでしょう。
セザンヌも愛した画材店の主タンギー

タンギー爺さんの店には、ゴッホだけでなく、当時の前衛芸術家たちがこぞって集まっていました。ポール・ゴーギャンやエミール・ベルナール、そしてポール・セザンヌもその一人です。
特にセザンヌにとって、タンギーの店は特別な場所でした。当時、世間から全く評価されていなかったセザンヌの絵を、唯一展示・販売してくれたのがタンギーだったからです。若い画家たちは、セザンヌの作品を研究するために、この小さな画材店を訪れたと言います。ゴッホもまた、この店でセザンヌの作品に出会い、大いに刺激を受けたことでしょう。
親密なタンギー爺さんとゴッホの関係性
ゴッホとタンギー爺さんの関係は、単なる店主と客を超えたものでした。タンギーは熱心な社会主義者であり、かつてパリ・コミューンの闘士として死刑宣告を受けたこともあるという激動の過去を持っていました。
社会的弱者への慈愛と平等の精神を持つタンギーに、ゴッホは強く共鳴しました。売れない画家の絵を絵具代として受け取り、妻に怒られながらも彼らを支援し続けたタンギー。ゴッホにとって彼は、芸術の理解者であると同時に、精神的な支柱でもあったのです。この肖像画から溢れ出る温かさは、ゴッホのタンギーに対する深い敬愛と感謝の念そのものだと言えます。
幻の作品の来日記録と公開状況
「日本でこの2枚を見ることはできないの?」と思う方もいるかもしれません。過去の記録を紐解くと、ロダン美術館版は何度か来日展で公開されたことがあります。しかし、世界的な名画であるため、頻繁に貸し出されるわけではありません。

一方のニアルコス版についても、大規模なゴッホ展などで稀に来日することがありますが、その機会は非常に限られています。もし日本でこれらの作品が見られる展覧会が開催されるなら、それは絶対に見逃せないチャンスです。普段は見られない「もう1枚のタンギー爺さん」との対面は、きっと忘れられない体験になるはずです。
ゴッホのタンギー爺さん2枚が伝える精神
ここまで、ゴッホが描いた『タンギー爺さんの肖像』の2枚のバージョンの違いや背景について解説してきました。実験的で情熱的なニアルコス版と、調和と静寂に満ちたロダン美術館版。この2枚は、ゴッホがパリ時代に成し遂げた芸術的進化の証です。
どちらの作品にも共通しているのは、モデルであるタンギーへの温かな眼差しと、ゴッホが夢見た「日本」という理想郷への憧れです。2枚の絵を通して、私たちはゴッホの苦悩と希望、そして彼を支えた一人の老人の優しさに触れることができます。もしパリを訪れる機会があれば、ぜひロダン美術館でその色彩の輝きを直接確かめてみてください。
